【エッセイ】第三項として生きる。_完成された世界のなかで、私は如何にして政策科学をするのか。
さまざまな取り組みをするなかで、ふとまとまった自己認識を、勢いでまとめた文章です。
それまで僕はなんとなく、「僕は人とは違うんだよね〜」みたいな語りくちにはなんだか、自虐に見せかけた自画自賛というか、「個性アピール」というか、そんなきらいを感じていたから、かくも自分を掲揚したくはないなと思って、あまり自分のことを変人だと公言したり、自認したりすることにはブレーキをかけていました。しかし最近、どうやら変人であるということは、個性アピールがどうだとかっていう以前にふつうにマイナスポイントなのではないか、ということがわかってきてしまって、ほな、自分の欠点は素直に認めるほかないなあ、という気持ちになっています。そうなったが最後。どんどん、僕の変なところが高解像度で見えてきて、メタ認知が進んで、こいつ、変すぎる、となります。顔が変。服が変。頭が変。体が変。声が変。心が変。思想が変。視野が変。行動が変。恋の仕方が変。喧嘩の仕方が変。会話の仕方が変。文章が変。環境が変。変で、変で、変づくしで、僕には最早ニンゲンと同じ部分なんて細胞のひとつも無いんじゃないかという感覚になります。
なんなんでしょうねこいつは。ミステリーですよこれは。
どうしてこんなに歪な人間が出来上がってしまったんでしょうね。親に愛され、経済的にも恵まれ、文化資本に囲まれて育って……。こんなにも恵まれた環境にいるというのに、ひとりで僕が身勝手に歪んでいます。僕は釈明を迫られています。「おまえは、どうしてそんなふうになってしまったんだ」と。僕という存在は、それそのものが、過去数多の他人様から莫大な投資を受けてきた大資本です。だから、説明責任を問われます。僕は、僕の鈍色のナラティブを、紐解き、示さなければなりません。
なぜでしょう。やっていることそのものは大したことはなくて、大人たちが普段やっていることの足元にも及ばないはずです。なのになぜ大人たちは僕を褒めてしまうのか。それは僕が子供だからですよね。ではなぜ子供がやった些細なことは大人から褒められるのか。それは、「その年齢の時点でここまでのことができるということは、大人になったらもっとすごいことができるはずだ」という目算があるからです。大人たちは、その時の子供の行いに直接価値を支払っているのではなく、将来発生するであろう価値ある行動のために投資をしているのです。すると、それって、僕が順当に成長し続けることが前提じゃないですか。だから、僕が賞賛を裏切らないためには、僕が成長を続けなければいけないんだ……ということにずっと気づいていたと思います。
そんな世界観を明確に言語化できたのは中3の頃です。不登校から脱却し、ふたたび人生を進めていこうとする時期でした。だから、僕は常に行動し続けました。僕は僕自身の怠惰さも知っていたから、僕が何かをするためには、その「やりたいこと」を「事業」化する必要があるということも、この頃になるといい加減に自覚していました。すると、僕という個人とはさながら法人であり企業です。僕という資本体系を成長させ続けなければならないという感覚は、僕をとりまく社会的価値によって形成される仮想的資本主義の構造によって後押しされて、とめどなくなっていきました。
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