#カンザキイオリ非公式誕生祭 をふりかえって
大学1回生の冬、 #カンザキイオリ非公式誕生祭 という企画を終えて書いたnoteです。
途中、実際の体験を私小説ふうに描写する場面もあります。
私のこれまでの活動スタイルとカンザキイオリの活動スタイルとの最も大きな違いは、自己マネジメントの有無です。私は作品発表の場を高校の頃から自分で作ってきたし、活動の顧客を自ら営業して手に入れたし、自分の活動方針や作品のテーマは完全に自分で選択してきた。そもそも私の表現活動は「生産的社会のなかで僕が僕らしく生きる営み」の一部でしかありません。人生活動のための創作表現であって、創作表現のための人生活動では決してない。語彙力など踏み台。アートなど手段。僕が僕の意思を全うするためにのみ存在意義のある生産活動。それが僕にとっての表現です。
一方カンザキイオリ曰く、彼は久しく「表現」しかやってこなかったそうじゃないですか。
それが、今回の卒業を経れば、腫れてカンザキイオリは自らの人生を自ら制御しだす。「表現活動者」だった彼が「活動表現者」になる。
カンザキイオリが僕と同じ土俵にきてくれた!!!
カンザキイオリとライバル的関係になる。それが今回のテーマです。たとえ人には圧倒的実力差を透視されても、僕が苦しくなっても、いつか、彼が彼自身のスキャンダルか何かで落ちぶれてしまったりしたとしても、純粋に、負けたくない。勝ちたい。そう思って互いの道を這い上がっていける。そんな関係でありたい。
彼の今回の卒業は都合がいい。僕が以前から思い描いていたことと、見事なまでにマッチしている。
門出ではあるかもしれないけど、僕からすれば「いってらっしゃい」などとんでもない。
「おかえりなさい。おめでとう」
そう言う他ないのです。
僕の彼に対する姿勢は、ベクトルとしてはなんにも変わりません。「親愛なるあなたへ」を読んだあの日から、きっとその形は何も変わらない。単に以前よりやりやすくなるだけです。単に以前より大きくなるだけです。
僕は僕の活動をする。ほんとうに僕の望む活動を。お勉強上等。留学も上等。政治、政局、違法じゃなきゃ上等、思想つよつよで上等。とりとめもなくって自由万歳。ビジネス上等。言うなれば、僕は貴方とPIEDPIPERさんを合わせたような存在かもしれない。僕は僕のたたかいかたをする。ほんとうの意味で世界をちょっとだけ変えてしまうのは、僕の方だ。
僕はあなたに救われたんじゃない。僕は僕の足で僕を救った。あなたを利用して自分で自分を救った。
だから、貴方も僕をきっと利用するだろう。
野生の桜というのは、日本人が思い描くほど潔い植物ではない。根から毒を撒き、さくらんぼは異臭を放ち、ライバル植物を死滅せしめる。クローンとして生まれ、ここで観光客をもてなして死んでいく彼だって、きっと根っこにはそんな因子を忍ばせている。カオスがあれば何度でも芽吹くんだろう。まるで中学生の僕が自室のベッドから這い出たあの日のように。
それは独りよがりということではない。ライバルを死滅させる山桜の存在は里山の共生関係に籍を置き、生態系と協調している。各々、生存のために別々のことをやっていて、牙を剥き出し歯が立ちまくり、しかし結局、それが互いのためになる。何度でもヤマアラシのジレンマを繰り返して、時に棲み分け、時に進化し、時には先祖返りなんかしちゃったりして、その山の土は肥えていく。川は海へと広がる。流れ込んだ土壌の栄養を、うごめく魚が喰らい生きる。
それぞれがエゴで動き出し、結果「良き方向」へと世界は回る。
そういうもんか。そういうもんだよな、きっと。
ここまでを、阪急京都線の中で書いた。今、十三駅で降りる。
僕はとまらない。僕は必ず僕のやりたいことをやりたいようにやって、結果として、カンザキイオリに追いつき、追い越す。
もうすぐ僕は伊丹から豊洲へ飛ぶ。待っていろ。今日は3月31日、現在推敲作業中。今、伊丹空港10番搭乗口でANA30便を待っている。
あっ、搭乗口が11番に変更になった。移動しなきゃ。いったん推敲を打ち切ります。
この企画は、今のところ、僕の人生でいちばん骨を折った「おめでとう」でした。
僕が、貴方が、生きていてよかったぜ。
0コメント